短文以上長文未満の妄言

ただ書いていく。

劇場版ラブライブ!-The School Idol Movie- 感想・考察

2013年に放送が開始された「ラブライブ!School idol project」はついに劇場アニメ化に至った。公開時から内容に関しての情報がほとんど入ってこなかったが、そろそろネタバレが流れる頃かと思い、今更ながら見に行ってきたので感想と考察を書いていく。

 

以下ネタバレ注意

感想

 その前に少し余談

私が最初に「ラブライブ!」を知ったのは『電撃G's magazine』の企画開始情報だったと記憶している。あの時のGマガは「AngelBeats!」の「天使ちゃんのねんどろいどぷち」おまけ付きということもあって山積みにされ一部ネットを騒がせていたのを覚えている。当時のイメージビジュアルでは「赤めのチェックな衣装」。キーワードには「アイドル」。さらにはその頃AKB48が台頭してきていた(AKB48 2010年とでも打てばグーグル先生が教えてくれる)ということもあり「なんだAKB48のパクリ企画を始めるのか」という印象を持った。「会いに行けるアイドル」ではなく「自分たちで作るアイドル」とはまた安直なと。その後は金銭面、もしくは単に興味がなくなったからかその雑誌を買うことはなくなった。数年後、たまたま見たCDTVかMステだったかの音楽ランキングに知らないアニメ調のPVが流れた(気がするソースは記憶)。ちょっと気になって調べたところ、ああ数年前のというアレか。そしてまた少し時が立ちアニメ放送前、公式ホームページを見ると初回限定盤のCD?が1万円ほどで販売されると記載されていた。流石にほとんど買われないだろうとか思ったがそれは完売。恐ろしいファンがバックにいたもんだと驚嘆した。そしてアニメ放送からはキャラが可愛かったという感想を持ちつつ、結局のところ「あの時1万円を出したファン」ほどハマることはなかった。つまり所謂ラブライバーにはならなかった。

「劇場版ラブライブ!-The School Idol Movie-」感想

 良かった、とだけではアレだ。キャラが可愛かったというのは素直な意見である。キャラ8人を動かしつつ表情なども細かい変化をつけ見るたびに新しい発見があるタイプの映画だなと思った。特に園田海未が観光に反対するシーン、多数決で負けた彼女を姉の様な目で見る矢澤にこは印象的だった。事前に「星空凛ちゃんが可愛い」という感想をちらほら見かけたが凛ちゃんも可愛かった。ただそれだけでなく本編中に色んな衣装を着せる、髪型を変えるなど女の子たちを可愛く魅せる工夫が多々あった気もする。また「当然」とは言い過ぎかもしれないが、映画単体としては初心者向けではなくファン向けであった。μ'sとは何なのか、こいつらは何だなどの説明はなくキャラの雰囲気こそ掴めるものの、初見で把握するのは人数的にも物語的にも難しい。

ファン向けの映画として見たときにはとても良かった。前述の通りキャラが可愛いだけでなく、ストーリーとしてμ'sとしての決着が描かれており、楽しめた。(思い入れの強いファンに対しては少々不謹慎かもしれないが)。中でもステージの量は満足できるものだった。これは応援上映、絶叫上映したら楽しいだろうなとか思っていたところどうやらあるらしい。自分は行かないが「ラブライバー」の方はぜひと思う。

シンプルなストーリーの感想というと、2期最終話の「スクールアイドルとしての終わりであるはずの卒業式の続き」という引き伸ばしに対して適当なところで落ち着いたのではないかと思う。確かに在籍してはいるんだなという謎の納得と共に。

今回の主役はやはり全編の主人公的存在でもある高坂穂乃果だった。μ'sを始めた彼女が、一度は揺らいだもののμ'sを終わらせる決意をするまで、そしてその先に待っているものを描いていた。次回企画も決まっていて、「μ's」は終わるけど「スクールアイドル」ひいては「ラブライブ!」は終わらないというメッセージを感じた。またラブライブ!の主題である「みんなで叶える物語」に沿って「夢を続ける」ための物語であった。

考察前におさらい

 ラブライブ!ってどんなアニメだっけ?ということで私の復習も含め簡単におさらい。

ラブライブ!のテーマは「みんなで叶える物語」。

1期は廃校の危機が迫った音乃木坂学園を救うために高坂穂乃果がスクールアイドルを始めるという内容。1話のタイトルである「叶え!私たちの夢――!」はμ'sの夢を提示しその夢は変化しながら続いていく。1期の夢は学園の存続であり、これはラブライブ出場ならずとも彼女たちの頑張りもあって叶えられた。

2期は1期では出場できなかったラブライブの出場と優勝が夢として掲げられる。この時彼女たちの気持ちは学校から彼女たち自身に移る。そして夢の先はμ'sの終わりであり、解散を決意するに至った。しかし2期の最後では「もうちょっと続くよ」と言わんばかりのステージで劇場版へと繋げた。

考察のようなもの:「夢の先」の「夢」のお話

ここから考察のようなもの。一度しか見ていないので間違えているところがあるかもしれないがあしからず。

1期から2期への転換で新たな夢を見出したμ'sだったが、2期の11話で「夢の終わり」の先の「μ'sの終わり」という事実と向き合いそれを受け入れた。そしてラブライブ優勝をもって夢は叶えられ「夢の終わり」のその先は「μ'sの終わり」しかないように思えた。それでは「夢の終わり」から「μ'sの終わり」までを延長させた今回は一体何だったのだろう。

夢の始まり 「私たちの夢」

劇場版ラブライブ!は「夢の終わり」から始まる。つまりここで表現されている「夢」はもはや目指すものではなく願い見ようとする夢。劇場版ラブライブ!は「私たちの夢」だったのではないだろうか。これは今までと同じような「目指す夢」ではない。「見る夢」である。それは就寝時に記憶と共に見るものでもある。つまり寝たときに見るアレに似た何か。またそれを象徴するかのように物語の区切りには穂乃果が起床するシーンが挿入されている。となるとこれは「彼女の夢」でもあるのかもしれない。そして「夢から覚める」ことが物語のもう一つの主題でもあり、この映画は徐々に夢から覚めるような構成がされている。

序盤 ニューヨーク編の「夢」

ニューヨーク編は今後のラブライブの展開としてニューヨークでPV撮影をしてほしいという話だった(はずなのでこの体で話を進める)。ニューヨークに飛んだμ'sは事件に会いつつも自分たちの目的の場所を見つけ撮影を終える。

この時の彼女たちは夢のような体験をする。それは海外撮影から始まり高級ホテルやオシャレな服、さらには望んだ食べ物。そして何よりも「残った時間もμ'sでいること」が彼女たちにとって夢であったことには違いない。「μ'sでいること」の実感はスクールアイドルとして振る舞うことのない別の場所だからこそ強く感じられる。公園でのシーンで「9人だから」という実感を覚える描写があった。またビルの屋上でのシーン、凛「ニューヨークはアキバみたい(意訳)」は正直笑ってしまったが、彼女がこう感じたのもその場にμ'sでいたからだろう。

ニューヨークで穂乃果は個別で夢のような体験をする。それは謎の女性シンガーとの出会いである。この女性シンガーはその後も登場しているが彼女の登場と消失は夢からの目覚めを誘導しており、つまり現実的な存在を象徴しているとも考えられる(具体的には後述)。

中盤 覚めかける夢と二度寝

飛行機内で一度夢から覚めた穂乃果だったが、その先もまた夢のような状況だった。序盤が「夢の後もμ'sでいること」という「夢」ならば中盤はまさにその夢の続きを見るための二度寝である。二度寝の理由なんて「まだ寝ていたいから」がほとんどだろうが、たまに「もっとさっきまで見ていた夢の続きを見ていたい」という時が少なくとも私はある。

中盤は空港に降りたμ'sを待ち受けるファンという場面から始まる。このときの穂乃果、園田海未、凛、南ことりの掛け合いも夢を示す。「まるで夢みたい」「どこからが夢?」「スクールアイドルを始めたところから?」(意訳)。撮影したラブライブのPVによってファンが増えたスクールアイドル。彼女たちはラブライブ成功だけでは成し遂げなかったような経験をする。さらにそれに追い打ちをかけるように夢を見続けさせようとする力が働く。ドーム公演の案内、A-RISE綺羅ツバサの勧誘、学園長の勧め。そして増えたファンの期待。言い換えれば時間があるから二度寝ができるという理由付け、この時点ではすでに三度寝の誘惑だが。

一度はμ'sを終わらせる決意をした穂乃果たちμ'sがここで迷ったのは一度見てしまった夢をもう一度見れるのなら見たいと思ったからだろう。そこで穂乃果は迷い、苦しむ。しかし、いつかは夢から覚めなければいけない。女性シンガーと再び出会った穂乃果はμ'sとして夢中で楽しんできたことを思い出し、夢のその先に進む決意をした。そしてそれはμ'sメンバーも同じ考えであった。

終盤 2度寝からの目覚めと新しい夢

家で起床した穂乃果はドームでμ'sの解散を伝えること、スクールアイドルのためのステージを作ることを伝える。これはμ'sひいてはスクールアイドルが作る新しい夢であり、穂乃果が1期でμ'sを始めたこととリンクする。そして彼女たちは新しい夢のためにメンバー集めから来場者集めと最初から土台を積み上げていく。

みんなで作った新しい夢の舞台はステージを成功させ、結果ラブライブは次回もドーム公演が決まる。これが夢から覚めたμ'sが最後に打ち出した新しい夢である。この夢は見るものではなく目指すものだとも言えるだろう。

高坂穂乃果の夢として見たとき

前述の通りこれは高坂穂乃果の夢とも捉えることができる。どのタイミングで見ていた夢かと言うのは言及できないが、最後のステージの歌詞を加味すると劇場版の時間は今とは別な時間であることがわかる。劇場版の鑑賞は「戻る行為」であり、思い出を記憶を見直すということなのかもしれない。そう言う意味では夢を回想と置き換えても読むことができる。

夢によるフィルター

夢によるフィルターは随所に見られる。特徴的なものは突然始まるミュージカル調のステージだろう。この部分は急に始まり前の状況からこの後どうなったかを要約している。これが許されるのは「確かこんな感じだった」という高坂穂乃果の夢だからだとも言える。もう一つ付け加えるならこのステージは3回あるがどれも3Dモデルが使われていない。他のステージが事実として残る現象のため3Dとして表現されているのなら、夢であるミュージカルに3Dが使われてないのも納得できる。ここでは夢として表現しているが穂乃果の脳内イメージとミュージカルは2期1話でも表現されていると言及しておく。またこれは少し強引だが、男女比について夢フィルターとして捉えてみようとすると、あの女性ばかりのファンや全体として女性が多く描写されていたのは彼女の視点から周り景色を見ていてからではないかとも解釈できる。

穂乃果と女性シンガー

この映画のポイントの一つは穂乃果が出会った謎の女性だろう。彼女はEDテロップなどで女性シンガーとして表記され具体的な名前を持っているわけではない。これは彼女もまた夢の存在であるからだ。ニューヨークで夢みたいな時間を過ごした穂乃果はその夢の終わり、PVの撮影を前にしてどこか不安そうだった。という表現こそないが、夢を見た少女がこのままでいたいと無意識に願うのは納得できる。そんな彼女が出会ったのが魅力的な歌を歌う女性シンガーである。

彼女は名を名乗らず、その姿は穂乃果の将来の姿をしているようにも見える。グループが解散したのち1人歌っている境遇も相まってその存在は高坂穂乃果に近づく。しかし彼女は彼女なりの歌う理由を見つけ現在の穂乃果とは対岸の位置で歌っている。(μ'sという見知った場で皆で歌う高坂穂乃果⇔海外という場所で一人歌う女性シンガー)。

彼女は穂乃果の無意識に抱いていた現実(μ'sが解散したのちの未来)の姿だろう。夢を見続けていたい少女が見たもう一人の自分は現実を知っていた。「わかっているはずだよ」という彼女の言葉もまたそれを示している。無意識の自分の姿と出会った穂乃果はホテルの場所まで送ってもらい。夢から覚めるという過程を経る。彼女は中盤でもまた夢を見続けようか迷う穂乃果の元に現れ、現実への道を示す。

ここで一つ気になる点は穂乃果がマイクを持っていたことだ。マイクが彼女が消えてからも残っていたこと考えると、高坂穂乃果がニューヨークで電車を間違え魅力的な歌を歌う女性シンガーに出会ったというのは事実なのだろう。(もしかしたらマイクも夢の存在なのかもしれないが2度寝から覚めたときにもあったことから事実としてあるものだと考える)。

つまり穂乃果は事実として女性シンガーに出会いホテルまでの道を聞き、マイクを預かった。そして回想である劇場版ラブライブ!では彼女に自分の姿を当てはめ、彼女(現実を見ている自分)との会話の中で今の道を見つけたという話として描かれていると言えるのだ。

もう一つの「私たちの夢」と「現実」

ここで少し視点を変えたいと思う、それはラブライブ!を見る視聴者の視点である。

アニメでのステージの扱い

アニメでのステージはそのほとんどが話の文脈上のステージ(実際に起こったライブステージ)として位置づけられている。しかしながらそうではないステージがある。それは1期1話のステージと2期最終話の最後のステージである。所謂脈絡のないステージだが視聴者の視点から見ると、1期1話は視聴者に始まりを告げるものであり、2期最終話は視聴者にまだまだ続くという趣旨を伝える内容と捉えることができる。

「夢」を見ていたのは誰か

私は劇場版ラブライブ!を「私たちの夢」だと言って来た。ラブライブ!企画のテーマである「みんなで叶える物語」に参加者が入っているのと同じように考えると、つまり「私たち」に視聴者が含まれるとも言えるのではないだろうか。そうしたときに劇場版ラブライブ!は視聴者(ファン)が見ていた夢でもあると言えるのだ。

夢から覚める物語とステージ

前述で書いてきたとおり、もう一つのテーマは「夢から覚める物語」だ。この「夢」を視聴者側から雑に言えばμ'sをもっと見ていたいという夢だろうか。それ現実に近づける過程はステージを見ることでわかる。

序盤のステージはニューヨーク編でのミュージカルだ。ここでの場面転換は非現実的でありどちらかというとPVのような印象すら受ける。これが挿入されたのはまだ夢の中だという示唆だろう。そして主人公高坂穂乃果が現実を一度見つめる展開(視聴者も重ねられている)ののち、物語上の事実的なステージが行われる。場所が公園と夜景に切り替わりつつも変わりのないμ'sが踊っているのは場所が変わっても彼女たちが変わらないということを示唆しているようだ。

中盤は3年生組のミュージカル。ここでは矢澤にこの家まで避難したという過程を要約している。空想的な場面転換こそしないものの、まだ現実(視聴者とμ'sが帰る場所である音ノ木坂学院)に帰っていないことがわかる。そして穂乃果が夢から覚めたのちに行われたのは「音ノ木坂学院」を舞台にしたミュージカルだった。ここでは帰るべきお場所に戻ったという意味に加え、穂乃果たち3人が学校内を移動するという現実的な表現からも現実に帰ってきたのだということを示唆している。

終盤のステージ「SUNNY DAY SONG」はμ'sのメンバーだけではなく、無名のスクールアイドルたちとの物語上のステージだった。彼女たちはこれからのラブライブ!に出てくるまだ名もないスクールアイドルを比喩しているとも考えられ、その中心にいたμ'sが始まりを示しているとも捉えることができる。そしてその未来を示す行為は今後のラブライブ!(現実として起こること)へと繋がる。

最後の「現実」と「夢」から醒める時

こうして徐々に現実に近づいてきたラブライブ!は最後に「現実」を突きつける。それが「僕たちはひとつの光」であり。物語上μ's最後のステージである。そこで繰り返し流される「今が最高」と「戻る」という言葉は今まで見てきた「過去」「夢」を思い出に、この先にある「未来」「夢」を追っていくことを良しとするような印象を受ける。そしてμ'sが終わるという実感と共にEDに入る。EDでは脱ぎ捨てられた練習着が投げ捨てられていた。彼女たちがもう練習することがなく、別の服を着ているということを思わせるそれは、今後私たちが見ることになるμ'sはスクールアイドルとしてあの時にいたμ'sではなく、別な服を来た彼女たちなのだというメッセージもあったりなかったりするのだろう。

1期1話→2期12話と続いたμ'sからのメッセージは劇場版ラブライブ!の終わりとともに明示されたのだ。

μ'sという夢の終わりとラブライブ!という夢の繋がり

夢は終わった、これでラブライブ!は終わってしまう。いやそうだろうか、この映画のもう一つの物語は、とはいえこっちが趣旨だったが、μ'sが繋げるラブライブ!という話だった。μ'sの物語は終わるがスクールアイドル、ラブライブ!は終わらないということだ。

ラブライブ!を繋げる物語 「スクールアイドル」と「アイドル」

序盤にスクールアイドルとしての役目を果たしたμ'sだったが、そのために中盤の彼女たちの立ち位置は変わってしまった。「スクールアイドル」であった彼女たちはPVのおかげでその知名度を上げて有名人、つまり「アイドル」に近い存在となった。そしてそのために「アイドル」という選択肢を周囲から勧められることになる。

「アイドル」に近い存在はまだ「スクールアイドル」ということでもある。ファンとして登場した女の子が多かったのはそのためだろう。スクールアイドルは学校を象徴するアイドルであり、学校を選ぶ女の子たちの指標ともなりうるというのはTVアニメ編でやってきたとおりである。このアイドルとして活躍する場が限定されている所は所謂ローカルアイドルと近いのだろう。

スクールアイドルにとって必要な場は「学校」である。このとき「海外」でのステージは「学校」とは異なる場であり、それを見た人(動画サイトを見るシーンでμ’sに続けてほしいとコメントしていた人たち)にとって「スクールアイドル」ではなく「アイドル」と成り得てしまったのはありうることである。

A-RISEとの対比

 「スクールアイドル」と「アイドル」の対比はA-RISEとの間でも行われていた。スクールアイドルとアイドルの間で揺れる高坂穂乃果の前に現れたのはツバサだった。彼女によるとA-RISEは「アイドル」としてデビューすることだった。そんな彼女たちとμ'sの大きな差は最初の目的だろう。A-RISEのデビュー理由はアニメでは語られない。しかし学校再建と言う学校と密接な理由ではないと邪推する。μ'sの場合はその理由であったからこそ「スクールアイドル」として終わることを決めたとも言える。

余談としてここで「スクールアイドル」と「アイドル」が対比されているとすると、劇中で描写されていた「スクールアイドル」の女性ファンと反対(スクールアイドルの地続きの場ではあるが)に位置する「アイドル」のファンはもしかしたら男性ばかりなのだろうか。

スクールアイドルが作る舞台「ラブライブ!」

終盤、高坂穂乃果の提案から全国のスクールアイドルを集め、スクールアイドルによるスクールアイドルのためのステージが行われる。それは彼女たちによって1から作られ、宣伝も彼女たちによって行われたステージはその彼女たちによって演じられる。しかしながら今まで登場したキャラクター以外に特に名前が出てくることはない。そんな「無名なスクールアイドル」たちはラブライブ!という場所がまだ持っているスクールアイドルの可能性を示す。そして彼女たちの中心で踊るμ'sは、これから広がるスクールアイドルというコンテンツの中心、始まりはμ'sであったと言っている。つまりμ'sから始まったスクールアイドルが広まりが見て取れる「SUNNY DAY SONG」のステージは「ラブライブ!」を体現しているとも言えるのだ。

恐らくμ'sだけではラブライブ!というコンテンツは表現できなかった。それはラブライブ!の存続にはスクフェスという存在もまた関与してきたからだ。そこに登場するスクールアイドルを含めてラブライブ!なのだ。そしてこれからもμ'sだけではないスクールアイドルが登場するラブライブ!があるということを示していると言えるだろう。

劇中のファンの描写について

長々と書いてきた妄言もそろそろ終わりである。ステージが視聴者へのメッセージだと考えると、ファンと言う存在はそこだけに存在するのだろうか。いやよく見るとそういうわけでもなさそうである。

言葉による比喩

前述の通り、ニューヨークでのステージを行ったμ'sは「スクールアイドル」だけではなく「アイドル」としても見られるようになった。彼女たちに対してのコメント「辞めないでほしい」などは劇中のファンからμ'sへの希望であったが、それに加え視聴者という視点も考慮すると「現実のファンの希望」としても置き換えられる。視聴者が現実に戻るという物語が進む中での中盤であるからこそ、こういった比喩が入れられたと考えられる。

また中盤において「アイドル」でいることを「ファン」という仮想の存在から望まれた高坂穂乃果は自分たちが「ここ」まで来れたのは「スクールアイドル」を「夢中」で「楽しんで」きたからであったと気づく。これは「現実のファン」もまた「スクールアイドルのμ's」を「夢中」で「楽しんで」いたからこそ「ここ」まできた、と考えるとそこに重ね合わせがあるともいえるだろう。そしてこのシーンは穂乃果が現実を見据えたシーンであり、μ'sに終わってほしくない視聴者(ファン)へ今までのμ's在り方とこれから進む道を提示した台詞であった。

花の描写による比喩

μ'sの最後のステージは花の上で踊っているというような効果があった。花の描写はそれ以前にも見られ、ファンの比喩として花が描かれていると推測できる。

水たまりを飛び越える穂乃果

 物語の冒頭、過去の回想シーンのようなものが挿入される。それは公園で高坂穂乃果が水たまりを飛び越えるというものである。このとき飛び越える水たまりは泥だらけであり、パッと見て良いものではない。しかし物語中盤、「自分(現実)と向き合った」穂乃果のシーンから再び水たまりを飛び越える描写へと移る。この時の水たまりは多くの花々で囲まれている。これはスクールアイドルとしての大成を意味し、その中で再び新しいことに挑戦しようとしている。とも取れるが、それに加えこの状況(水たまりと花畑)は多くの花(ファン)によって「作られ」た。今までのラブライブ!というコンテンツ、そしてμ'sを示唆しているともいえる。水たまりはこのときの壁(アイドルへの道)だともいえるだろう。それを飛び越える穂乃果は何度も書いてきたとおりスクールアイドルとして進み、終えることを決めたのである。またこのシーンの「飛び越える」という行為はアニメラブライブ!のイメージビジュアルでもある。そのため新しいスタートとも繋がる。

踏みつけられた花たちは 

「あの水たまりを飛び越えたら花は踏みつけられて散ってしまうだろ」最もである。アイドルへの道を飛び越え、現実と向き合った穂乃果の選んだ先はμ'sの終わり、解散だろう。そのとき今まで支えてきたファンもまた散ってしまうかもしれないというのは想像がつく。必ずしもそうではないのはいまだμ'sが活躍する場があるからであるが。

散ったファンはいなくなってしまう。しかしここで一つ、次への希望がある。それが高坂穂乃果が始めたスクールアイドルによるステージ、つまりラブライブ!の存続である。このステージへ赴くシーン。他のメンバーが走っていく中で穂乃果は一枚の花びらを拾う。この花びらこそ高坂穂乃果の決断(μ'sの終わり)と共に散った花だといえるだろう。そしてそれは穂乃果に拾われ次のステージの始まりへと向かう。

ご存じ?の通り、μ's最後のステージは花に囲まれたものだった。この花をファンと見立てると彼女たちが最期に踊っていたステージの演出、アップと同時に花がキャラクターの周りを囲っていた理由もわかってくるだろう。

ラブライブ!は終わらない

まとめ:結局何が言いたいの?

うだうだ書いてきたためか何が言いたいのかはっきりしないので最後にまとめ。

劇場版ラブライブ!の物語

序盤ラブライブ!で活躍したμ'sがニューヨークで撮影をするために海外に飛びそこでいつも通り?の日常を過ごす(夢の先延ばし)。このとき穂乃果はもっとこのままでいたいという気持ちと、現実とで揺れる。中盤、日本に帰ってくるとPVの成果か一気に「アイドル」に近い存在へ持ち上げられる。周りからは続けたらどうかと勧められるが穂乃果はμ'sを終わらせることを決める(夢と現実の選択)。終盤、穂乃果はスクールアイドルのためのステージを作る(ラブライブ!という夢を繋げる)、そしてそれとは別にμ'sのラストステージが行われる(μ'sという夢の終わり)。

そしてこの作りは視聴者から見た場合もまた同じく夢が徐々に終わるように作られている。しかしながら同様に視聴者(ファン)がいたから作られた「ラブライブ!」そして「μ's」を示唆し、加えてラブライブ!の夢を繋げるようなギミックも仕掛けられていた。

といった感じだろう。

追記

今回のラストステージではμ'sが終わる、解散するということをμ's⇒ファンという形で明確に言葉で表現されることはなかった(例えばドーム会場で皆(今までの文脈でいえば視聴者を含む)に解散宣言をするなど)。それは彼女たちのもう一つの場所が現実にあるからだろう。つまりμ'sは本当の意味ではまだ終わっていないのかもしれない。

最後に「水たまりを飛び越える穂乃果」を掘り下げる。

最後にまた「水たまりを飛び越える穂乃果」を掘り下げてみる。ここまでくれば深読みもすぎているかもしれない。

最初水たまりを飛び越えようとする穂乃果を見たとき、こんな汚いところに飛び込んでどうするんだ。こんなことをしても無駄じゃないかという考えが浮かぶ。挑戦することは良いことかもしれないがそれが何に繋がるのか、それこそ単に水たまりを飛び越えただけなど物語がないのではないか。そしてこれは中盤の水たまりを飛び越えるシーンにも同じようなことを言うことができる。こんなことをしても無駄だと。

しかしどうだろう、人によっては泥だらけになって飛び越えようとする彼女を応援したいと思うかもしれない、飛び越えられるかどうかハラハラするかもしれない、そして大丈夫か心配するかもしれない。そしてまた花に囲まれた水たまりを飛び越える彼女に感動を覚えるかもしれない。

前者と後者の表現が違うのは、私がラブライブ!というコンテンツを見る上で前者の人間だからである。余談にも書いた通り、私は最初(泥を飛び越えようとする穂乃果)には興味が持てなかった。けれども人によってはその彼女たちを応援したいと思い皆で作る企画に参加した。それが今に通じることになる、だからこそ花畑になったことを喜ぶ人もいるだろう(もちろん人によりけりだが)。

こうして泥まみれの彼女を象徴するのは、見方が変われば「意味のない行動」も人によっては「意味のあるもの」に見えるということである。これは現実のアイドルに当てはめた場合も同じである。人によっては「可愛い女の子が媚び売って消費されている」とか言ってしまうかもしれないが、ファンにとって「彼女は私を力づけてくれる偶像」「感動を与えてくれる存在」に成りえるのだ。

「ラブラ部員」「ラブライバー」という名前の呪い

これはふと思ったことだが、今まで「ラブライブ!ファン」≒「μ'sのファン」≒「 ラブライバー(ラブラ部員)」ということで世間は進んできた。しかし今後はどうだろう。現在新しく「ラブライブ!サンシャイン!!」として「Aqours(アクア)」が姉妹アイドル?後輩アイドル?としてデビューを前にしている。彼女たちがデビューした時ファンは何を名乗るのだろう。「ラブライバー」という名はμ'sの物ではなくなるのか。そもそもAqoursに鞍替えするのだろうか。それこそ俺はずっとμ'sのファンだという人がいてもいいかもしれない。とにもかくにもこれから「ラブライバー」という言葉が何を示すようになるのか少し気になったりもしたりしなかったり。

僕は黒澤ダイヤちゃん!!!

 

www.lovelive-anime.jp

 

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